(1)ゴルバチョフのペレストロイカのはじまり
ロシアの政治・経済の行方を考えるに当たり、どこから話を始めるかという問題は非常に難しい。本来であれば、ペレストロイカが必要になったソビエト社会主義共和国連邦の成立、つまりロシア革命から話を始める必要があるであろう。
しかし現在、従来のロシア革命の歴史は全面的に書き換える必要にせまられており、全く新しい資料や見解が必要な状況にある。近い将来、その内容は一新すると思われる。そこでここではソビエトの歴史を逆にその最後から始めることにする。
★ペレストロイカとは何か?そして、なぜ始まったか?
「ペレストロイカ」とは、ロシア語で『再建』を意味する言葉である。ゴルバチョフは、この言葉を『世直し−立て直し』としという意味に使った。
1985年3月、死去したチェルネンコの後を受けてソビエト共産党書記長になったゴルバチョフが、革命から70年をへたソ連の政治・経済を再生させるための国家政策に対してつけた名称である。
この政策は、85年4月の就任直後に緊急課題として提起され、国家政策として6年に亘って推進されたが、その結果は1991年8月19日の反改革派によるクーデターにより終焉を迎えた。しかも更にそれが契機となり、ソビエト共産党の解散、ソ連の崩壊、『独立国家共同体』(CIS)の創設という当初には想像もできなかった劇的なソビエト国家の崩壊の出発点となってしまった。
一体、このソ連崩壊の出発点となった「ペレストロイカ」とは何で、何故このような結果になっていったのか、ということから考えてみたい。
ゴルバチョフは、就任から2年後の87年に自ら筆を執って「ペレストロイカ」(田中直毅訳、講談社)という著書を発表した。その中で、「ペレストロイカは,ソ連における社会主義社会の発展の過程そのもののなかから生じた緊急課題」であり、80年代半ばまでのソ連の状況を分析した結果、その状況が深刻な社会的、経済的、政治的危機に満ちたものになりかかっていたことがその出発点であった、と述べている。
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ソ連の政治・経済は、70年代後半、保守派のブレジネフ、コスイギンの時代になってから急速に活力を失い始めた。失敗に終わる経済計画が多くなり、難題が山積し、未解決の問題が急増した。社会的経済発展に対する「ブレーキ機構」が形成されてきた。それは経済成長の鈍化となり、80年代はじめには停滞状態になった。
特に重工業では生産高の上昇が自己目的となり、生産効率、先端科学の応用、製品の品質などの面で先進諸国との間に大きなギャップが生じてきた。
その上、経済運営まで行き詰まり、政治・経済共に停滞してきた。更にイデオロギー的道徳的価値観まで腐敗がひろまってきた。
指導層内部の風通しが悪くなり、自然な交代が行われず、ソ連共産党中央委員会の政治局,書記局、連邦政府や中央委員会内部、党の各機関にまで支障がではじめた。全体としてソビエト社会は、収拾がつかなくなってきていた。
これらのソ連国家の深刻な状況が1985年4月の中央委員会総会においてゴルバチョフにより発表され、そこからペレストロイカが始まった。
★ペレストロイカの源泉
ゴルバチョフは、ペレストロイカのイデオロギー的源泉をレーニンの晩年の著作に求めている。ゴルバチョフがあえてこのことを著書の中で表明しているのは、ソ連共産党の政策の見直しを行うにあたり、レーニンをペレストロイカの出発点に持ってきた。
つまりレーニンの死後、1924年から1953年にいたる30年にわたって続いたスターリン時代の諸政策、つまり農業集団化、計画経済、大祖国戦争、東西冷戦、そしてそれらをめぐる党内闘争と大粛清は、ソ連共産党にあまりにも大きい負の遺産を残した。
この責任は、現在ではレーニンも共に負うべきものとする見解が強くなっているが、85年当時のゴルバチョフの場合、スターリン時代の大テロルの責任をレーニンまで遡らせると、ソ連共産党の組織そのものが崩壊するという配慮があったと思われる。
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●マレンコフによるスターリン路線の変革
ペレストロイカを、スターリン路線の変革と考えると、既にそれはスターリンに続くマレンコフの時代から始まっていた。マレンコフが書記長であった時代は、きわめて短い。彼はスターリン存命中の1952年の第19回党大会の中央委員会報告をスターリンに代わり行った。マレンコフの中央委員会報告は、スターリン時代の重工業・軍事産業から軽工業・民需産業に方向転換を行うといったかなり大胆なものであったと記憶している。
そしてスターリン死後の53年3月にマレンコフは、ベリアの推薦により首相および第一書記に就任する。しかしその後、ベリアは処刑され、53年9月にはフルシチョフが第一書記になり、55年2月にはブルガーニンが首相の座につき、マレンコフは1介の発電所長に左遷された。
●フルシチョフによる大路線変更とスターリン批判
マレンコフの次に本格的にスターリン路線の変革を試みたのがフルシチョフである。1956年から始まるフルシチョフの時代は、国際的・国内的共にソ連の最も輝かしい時代になった。1957年8月にはICBM(大陸間弾道弾)の発射実験に成功、続いて10月4日には世界初の人工衛星スプートニクの打ち上げに成功し、ソ連は最先端の宇宙競争においてアメリカを抜いた。更に61年4月12日にはガガーリンが乗った世界初の有人宇宙船ボストーク1号の打ち上げにも成功して宇宙開発では完全にアメリカに水をあけた。
このことによりアメリカの第2次大戦後の対ソ戦略は根本的に見直しの必要性にせまられた。フルシチョフは、この宇宙技術における優位性を背景にして、ソ連の外交を従来の「冷戦」から、欧米との平和共存に切り替えた。そして59年9月にはソ連の首脳としては、初めてアメリカを訪問、アイゼンハワー大統領と会談し、国連総会でも演説するなど、ソ連の平和外交を世界に示した。
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しかし1960年代に入ると状況は一変した。60年5月、アメリカのU2偵察機がソ連上空で撃墜される事件がおこり、フルシチョフは、その直後の4カ国首脳会議を破談にした。更に9月には国連総会の演説で履いている靴を演壇にたたきつけた。
61年にはアメリカ大統領ケネデイとドイツ問題についてウイーンで行った会談は決裂し、ベルリン危機となり、その結果、8月には東ベルリンに「ベルリンの壁」の構築が始まった。
更に62年2月には、ソ連がキューバに核ミサイルを配備したことから「キューバ危機」が発生し、米ソは核戦争の寸前まで行ったが、結果的には、これを契機に63年6月には両国間にホットラインが引かれ、8月には米英ソ間で部分的核実験停止条約が締結されることになった。
しかしフルシチョフの時代、社会主義諸国との間では、いろいろと問題が起こった。東欧のポーランド、ハンガリーでは暴動がおこり、中ソ関係は悪化して武力衝突まで発生した。
国内的にも、フルシチョフの時代はソ連の絶頂期になった。農業において1954年に開始された1300万ヘクタールの処女地開発作戦は大成功をおさめ、56年の豊作年には6,300万トンの収穫を上げた。このことから59年の中央委員会総会は、牛乳、肉、バターの1人当たりの生産高でアメリカを追い越すという目標の再確認まで行った。この状況を背景にして、1961年10月の第22回党大会の新しい綱領案では、いよいよ共産主義ヘの移行の開始が主張され、目標として1970年にアメリカを生産高で追い越し、1980年までにアメリカを1人あたり生産高でも追い越し、『共産主義社会の基礎の建設』の方針が示された。
フルシチョフは、初めて本格的なスターリン批判を行ったことで知られている。その最初は、1956年2月のソ連共産党第20回大会での秘密報告である。ここでフルシチョフはスターリンに対する個人崇拝が齎した害毒を14項目に亘って示した。この報告は、大会出席者に深刻な衝撃を与えたのみならず、アメリカ国務省が6月4日にその全訳を発表したため、世界の社会主義諸国や社会主義者たちに原爆なみの動揺を引き起こした。
フルシチョフによる2度目のスターリン批判が1961年第22回党大会であり、ここでは脱スターリン化を目指した新しい綱領が採択されて、スターリンの遺骸はレーニン廟から撤去された。ここにレーニンとスターリンを思想的に分離するペレストロイカの原点がある。
この新しい路線に沿って、フルシチョフは62年9月の党幹部会に党改革案を提出した。その内容は、共産主義社会の建設のため、「より質の高い経済指導」を実現するため、州レベルで農業指導を担当する党委員会と工業指導を担当する党委員会を設けた。この2系統の党組織は2重の役職、人員が必要となり、現場に混乱を引き起こした。
フルシチョフによる諸改革は、学術・文化面でもスターリン時代に厳しく制限されていたものが一斉に解禁になり、党の機関紙であるプラウダの編集も一新された。たとえばそれまでは登場したことのない一般市民の写真が紙面に登場するようになり、内容も非常に市民的に変わった。しかしこれらの諸改革は、スターリン時代からの守旧派にとっては極めて危険なものであり、当然巻き返しが起こった。
拡大一辺倒の農業政策にも問題が生じた。カザフスタンの草原地帯の開墾地は、土地が疲弊し、個人副業経営の締め付けは、スターリン時代と同様に農業の生産性を低下させた。加えて、1963年は記録的な不作となった。1964年10月1日、フルシチョフの休暇中にブレジネフを中心としたグループによるクーデターで、フルシチョフは全役職を奪われ失脚した。
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