2012年5月15日火曜日

シカゴほぼ満喫


シカゴほぼ満喫

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           2006, 09.039.05

               その1

 出発

 リンカーンからシカゴまでは、直線でおよそ、500マイル、`にして800`ありますから、日本では、ちょうど東京から岡山辺りというところでしょうか。日本では、新幹線があるし、また、高速で行くにしてもたいへんな高速代金がかかりますので、なかなか、おいそれとドライブというわけにはいきませんが、此方アメリカはなにしろ自動車が生活の手段。それに、高速のインターステーツは無料ですから、すでにリタイアをしたような人たちもこれくらいのドライブは平然としているようです。というわけで、われわれも、というのは、今回の旅行は、最初は一人旅を予定していたのですが、急遽、同僚の田中さんが、仕事の都合を付けて何とか同行をすることになりました。といっても、どうせシカゴに行くなら、すぐ近く(50マイルくらい離れているのですが、こちらでは、これくらいはすぐ近くという表現です。)に、ベンダーが居るからということで、お互いの休みの間に少しだけ仕事をするという、これがまた、いかにも彼らしい使命感に燃えた仕事振りで、われわれ、現地採用の者からすると、いかにも日本人的な使命を持っての旅と相成った次第。

 そんなこともあり、また、金曜日には、できるだけシカゴの近くまで行き宿を取り、次の日のシカゴ見物に備えるつもりが、出発の間際に大事な会議が入り、結局出発は5時近くになってしまった。まだ、8時くらいまでは日が長いが、秋の訪れの足跡がすぐ近くまで聞こえるこの時期、そして、夕方、真東に向かうということは、時間が進んでいる方向に向かうので、少々、焦る気持ちがあった。この日の予定は、アイオアとイリノイの州境、ミシシッピー川のほとりにあるダベンポートと言う町。アイオアでも早くから開けた町で、例により、川の反対側にも、モーリンという大きな街がある。ミズーリ川にしても、ミシシッピー川にしてもこちらの州境は川になっており、この川の両岸にそれぞれ大きな街が発達� ��ていることが多々ある。ミネアポリスとセント・ボール、オマハとカウンシル・ブラッフ、スーとサウス・スー、カンザスとインデペンデンスなど、数え上げたらきりがない。それだけ、此方では、川が重要な交易・輸送の中心であったということか。

 夕方の出発で、アイオアの州都、Des Moines ( デ・モインと発音する)  まで、やく3時間。オマハからは、ほぼ真っ直ぐな道路が120マイルくらいつづく。このあたり、ネブラスカと違い、農場がよく整備されているし、緑もかなり多い。ネブラスカの畑は、多少の起伏はもろともせず、まさに自然のままに作られているが、こちらは、できるだけ平地にしようということで、広い農地のところどころにだんだんが作られている。これが、農地としていかにも早くから開墾されてきたという歴史を感じさせる。穂先がすでに茶色になったトウモロコシも気のせいか、心なしネブラスカのものより背丈が高いような気がする。そして、目を楽しませてくれるのは、葉がすでに枯れ始め、黄色になりかけた大豆畑。僅かの広さなら、緑の草原の中のしみ程度にしか感じないのだろうが、ここの畑にように、何十メートル、何百メートルという広さで、これ� �広がっていると、まるで、ここに黄色の絨毯を敷いたような感じ。緑の牧草地と対照的なこの畑が、大地に縞模様を作り、これも、また見事である。インターステーツの両脇のそんな風景楽しみながら、ただ、ただひたすら東に向かって走る。

デ・モインでは、インターステーツは町を迂回する形になっているが、この日は、週のキャピタルハウスをのぞくつもりで町の真ん中をとおる高速をはしる。暫くしてダウンタウンのあたりにくるとすこしはなれたところに異様な建物が見えてきた。キャピタルハウスは、大体がミニ・ホワイトハウスのようなものが多いが、ここのは、同じような遠景でありながら、屋根にまるで、イスラムのモスクのような形になっていて、金色に屋根が葺かれていたのには、おもわず、ぎょっとした次第。町の名前からしていかにもフランス系の町という雰囲気。どの様ないきさつでここが州都になったかは、とても興味のあるところ。というのは、この少し先に、アイオアシティーというのがあり、ここに、オールドキャピタルと� ��う名所があるからだ。かっては、そこに州都があったことに間違いはない。今回、是非、このオールドキャピタルに寄りたいと思っていたが、あいにく、このあたりに来て、空が随分暗くなってきた。


スーフォールズ、サウスダコタ現在の時刻

 アイオアをはしって居て、ふと考えたのが、車の量がやたらと多いこと。もちろん、ネブラスカと比べてだが、見ていると対向車線には、車が途切れることはない。何マイルもほかの車に合うことがないような、大平原の中のドライブと比べると、ここの車の量は、いやに多く感ずる。この日が連休の前で、行楽の車が多かったのかもしれないが、それにしても、アイオアあたりは随分と人口が多く、開けているようだ。やがて、この日の宿泊地、ダベンポートに到着。11時近くになるかと思っていたが、さすがにインターステーツ。75マイル位で、飛ばしてきたので意外と早くついた。がよかったのは、ここまで、それから、目的の宿をさがす。普通であれば、モーテルのインターチェンジのすぐ近くにあるのだが、ホテルの位置を下調べしたところでは、すこし、かなり離れた所に記しがしてある。ここを目指していったところ、目的のところには暗がりの畑のなか。こんなところにモーテルはないと、引き返したが、こうなると地図が宛てにならない。それでも、なか、もう一つの地図を便りに行くと、そこは、インターステーツの入り口。えらいこった、一方通行でこのままいくと高速に乗ってしまう、と大分入ったところで気が付き、そのまま、次のインターまで行こうと思ったが、ここは、何とか、ごまかし、ごまかしバックで、一方通行の 道を逆戻り。途中、インターに乗るトラックが入ってきて、肝を冷やす場面もあった。何しろ、一方通行のバックでは、モンタナの帰りに後ろにぶつけられた経験があるだけに、慎重に、慎重を重ねて、無事、ここを脱出。仕方なく、最後の手段とガソリンスタンドで尋ねることにした。地図を片手に、分かりにくい英語で尋ねたが、どうも、相手も、地図を見て不思議に思っている様子。結局、名前だけを頼りに目的のモーテルの場所を教えてもらったら、なんと、そのガソリンスタンドから百メートルくらいの先にあるとのこと。なるほど、スタンドに出てみたら、遠くにそのモーテルのネオンが見えている。インターネットで地図を調べて、安心していたが、時には、すでに、ホテルが場所を変えて、その地図が旧くなっているよう� ��こともあるということ、すごく参考になる経験をした。時間も遅く、大分、長旅であったので、この日はこのまま、ベッドに潜りこむ。お休み。

 

 この日の、走行距離は、340マイルでした。

 

 

ダベンポートからシカゴへ

 

 

 

 

 

 

 

 

ダベンポートは、中央部の時間帯であるが、ネブラスカとの時差かなりある感じ。ここはできるだけ速く出発したかったが、昨夜の疲れもあり、やや出遅れの感じ。それでも、まだ朝もやの残るミシシッピーの河岸を渡る。いよいよ、かってのフランス領のルイジアナからアメリカに入る。州の西を流れるミシシッピー川と、真ん中を流れているイリノイ川がはぐくんだ緑豊かな土地は、さすがにアメリカの穀倉地帯であることを思い知らせてくれる。シカゴまでは、およそ120マイル。二時間のドライブだ。ネブラスカが東西に長く、隣のコロラドまで行くのに8時間もかかることを考えると、アットいう間のイリノイ横断である。このイリノイ川は、ミシガン湖から流れ出て、イリノイ州を縦断し、州の南西のSt. Louisでミシシッピー川に合流している。つまり、ミシガン湖の水をメキシコ湾に流し込んでいるわけである。ミシガン湖の標高が175m、そして、St. Louisの最も低いところで、125mということ。その間、300マイル、500`であるから、勾配は、なんと、1/10000である。10`走って1メートルの高低差。これがアメリカ大陸の現実なのである。豊富な水が流れているにしても、これだけの高低差なら、上り下りは難なくできる。アメリカのたいしたところは、しっかりとして輸送体系が確立されていること。大陸を横断する鉄道、そして、大型トレーラーが行き交う時代のまえに、こうして、アメリカの大輸送網が出来上がっていたのだ。何しろ、あの、LewisClarkの探検は、アメリカを横断する輸送水系を発見することにあったと言うのであるが、それもうなずける、この水系のつながりである。

 シカゴに近づくにつれ、車線が増え、車の量もリンカーンでは考えられないくらい、次から次へと流れている。やはり、アメリカの大都市だけはあると感心しながら、シカゴには、インターステーツ80から57号線に乗り、さらに、9094号併 用線を通って入る。最初の目的地は、シカゴの見学場所としてはもっとも人気が高いといわれている「科学産業博物館」。シカゴのダウンタウンからやや離れた南の郊外にある。順調に高速をおり、すぐに案内板が見つかる。さすが、シカゴとおもい、これを頼りに進んでいく。ところが、近くの公園らしきところで、急にその案内板がなくなる。さてさてと思い、近くに着ているはずなので、それらしき建物を探すが、さすがはシカゴ。高い建物がやたらぎっしりと詰まっているうえ、此方も、建物を見たわけではないから、おいそれとは見つけることができず、通りがかりの人を探して道を尋ねる。ちょっと浮浪者風の黒人であったが、人懐っこく教えてくれたのはいいが、どうも、話がちんぷんかんぷん。あの角を曲がり、つぎ� ��また曲がり、どうのこうのという。これでは仕方がないので、一応、「分った、分った。サンキュー」と言うと、今度は、車によってきて、「悪いけど、道を教えたんだから、少し、お金をくれ」言うような素振り。そういえば、ガイドブックに、このあたり、まことに治安の悪いところで、道を歩かないようにと注意書きがしてあったことを思い出し、「現金はない。クレジットしか持っていない。」というと、相手も諦めたようだった。


それはアリゾナ州で何時間です

 さあ、近くまで来ている筈なのに、と思い、もう一度、道路わきで井戸端会議風の2人の女性に尋ねる。今度は、どうも本物。こうして、狭い道をぐるぐるまわっているうちにふと、大きな道路の反対側に、これは、また、立派な建物がたっている。よく見れば、「 Museum of Science and Industry」の看板がある。「これだ。流石。」と、玄関脇に車を寄せるが、肝心の駐車場の入り口がない。仕方なく、車を降りて、中に駐車場の入り口を訪ねにいったら、なんと、自分達のいる博物館の前の広場の地下が、駐車場になっていた。博物館を周回している道路の西に入り口があるというので、もう一度、無理をして左回りに車を走らせて、何とかここに入れる。地下3階建ての大駐車場にそこにあった。田舎ものは、駐車場に車を入れるのにも、これだけ苦労をしましたという一抹でした。

 

 こうして、何とか、目的の博物館に入ったのが、殆ど、10時。早速、チケット売り場に行くと、通常の展示、これだけでも、とても一日で見て回るのは、忙しいというのに、なんと、この週末まで、「レオナルド・ダ・ビンチ展」をやっているとのこと。2人とも、曲りなりにも技術者の端くれ。ここで、このチャンスを逃しては、その名が廃ると、少々、高い気もしたが、このチケットを合わせて購入。早速、その、特別展から見てゆこうと、入り口までいくと、係り館が、ここは人数制限をされていて、15分ごとのツァーになっているとのこと。そして、切符には、われわれの入場は、1415分だという。「ウへェーッ。あと4時間ある。」が、それなら、ここをゆっくり見て歩くことができると覚悟を決めて、一般の展示を見て回ることにした。

 

 この博物館は、その名のとおり、アメリカの産業の発達の歴史を紹介しているもので、開拓時代の旧きよき時代から、産業革命でアメリカが工業化され、そして、月に人を送り込むという現代の宇宙産業までの、農業、交通、産業、健康、医学、エネルギーといった項目の 展示が、所狭しと展示されている。まずは、小手調べと、エネルギー関係、産業関係の展示コーナーに行く。ここでは、石油の掘削から、輸送ライン、そして、精製なども含めた解説がなされていて、ものによっては、自分で展示物に手を触れて、その感触を楽しめるようになっている。 そんな中で、子供心に返り、夢中になったのが、NASカーのシミュレーション。これは、日本でもよく遊園地にあるが、カーレースのドライバーに なって、スビードコースのなかで、レースをすると言うもの。こちらのこうした展示場は、見学者は参加して楽しむというのが原則のようだ。子供が沢山並んでいると言うわけでもないし、係りの人がしきりに試してみるように進める。そこで、大人気なしとお小言を頂戴する雰囲気でもなかったので、これに挑戦する。もともと、こうしゲームには疎いほうであったが、実際にやってみると、これが、なかなかスリルがある。スピードを上げて行き、前を走る車を追いかけるのであるが、カーブのところで、スビードとハンドルの調整を間違えると、壁に車体をこすりつけてしまう。そうすると、座席と、握っているハンドルからその衝撃が伝わってくるようになっていて、体がガタガタと振動する。今度は、慌� �て、ハンドルを逆に切る。と、あとから、追い越してきた後続の車に接触。たちまち、車の前のバンパーが跳ね上がり、車体がボロボロになっている。こんな調子で、ガタガタ、ぼこぼこで無事レースを終わると、レースの成績がでてくる。結局、あとから挑戦した田中氏が40位、私が41位ということであった。ついつい興奮したスビードレースでした。

 

 大人でも楽しめるものはまだまだありました。続いて、でできたのは、スキーと、スケボーのシミュレーション。とにかく、此方の展示物は、並んで順番を待つということがないのです。ここでも、数台ある機械は、誰も乗っていない。係官が熱心に勧めるので、ここで田中氏はスキーに挑戦。これも、前の画面にゲレンデ、しかも、スキーのレース場のようなコースである。これは、かなり本格的な技術が必要。挑戦した田中氏は、半分屈みこんで体をひねり、体重をまえに乗せるような格好をして、必死にエッジを立てる。それでも、難しそうなコースでスキーの操作を間違えると、でんぐり返し。スキーを履いた足が中に浮いて、体は、雪山をころころという光景。こうなると、本人も必死。それを見ている係官� ��もう、大笑い。やっている本人の必死な表情を見ているのもなかなか楽しいものだ。何もしていないのに、なぜか体に疲れを感ずるような、この真に迫ったシミュレーションが、空き放題にできるのだから、贅沢といえば贅沢なもの。

続いて、おもちゃの製造工場のモデル。全自動でおもちゃが出来上がる。これは、子供たちがただ見て回るだけでなく、何ドルか入れると、自分の注文したものが、部品の製造から、組立て、包装までの工程を経てできあがってくる。そのプロセスを外から見ることができるようになっている。工程はたいした数ではないが、とにかく、次々に工程が進んでいき、自分のおもちゃができてくるのを追いかけながら確かめることができるから楽しい。部品が出来上がり、組み立ての工程になると、子供も親も、真剣なまなざし。最後は、町で販売されているものと同じようにきちっとした包装までしてくるから、たいしたもの。

 

顕微鏡で、生物の誕生などみるコーナーがあったが、此方のこうした展示物は、子供たちが、自分で操作して見ることができるようになっている。こうした工夫が、いかにも、アメリカらしい配慮。子供たちも、なぜか専門家になったような気分になるのではないか。


矯正親権とは何か

そのほか、力を入れているのが、交通手段の展示だ。ロビーの天井には、実物の飛行機が吊り下げられているし、正面入り口の横には、大陸横断鉄道のアムトラックの車両があり、それに並んで、昔活躍した蒸気機関車のモデルなども豊富に展示されている。蒸気機関車が動く仕組みなどもよく理解できる。そして、メインフロアーには、電車の模型を走らせている大都市の模型。これが、なんと大きな教室一杯と言うほどのもの。ここに、模型の電車が何種類もぐるぐる回っている。途中には、大きなビルの立ち並ぶ近代都市があり、鉱山があり、港があり、草原があり、トンネルがありと、実物、そのもの。ついつい、「今は山中、今は浜。」と歌いたくなるようなつくりである。うまくできているのは、建物全体のバルコニーの� ��示場がこの真上にあり、そこに、実物大の飛行機が展示されている。そして、これに乗ると、底に窓がついており、そこから、外を眺めることができるようになっているが、これが、丁度、このモデルの都市の上になっており、のぞき窓から、大都市を見下ろすことができるという仕組み。実に臨場感をもった景色を楽しむことができる。憎らしいほどのアイディアである。

 

医学の展示コーナーもかなりの力を入れているようであった。心臓の動きや、聴覚の仕組み、などの展示コーナーがある。残念ながら、名物の人間の輪切りの展示を賢明に探すが見つからず。その代わり、受精から始まり、胎児の成長の実物が展示されていた。しかし、これは、あまりにもリアリスティックで、気持ちがわるくなるほど。

 

U−ボート505。第二次世界大戦で大活躍したドイツの潜水艦の名前だ。大西洋で、ヨーロッパ軍の支援に行くアメリカの軍艦を多いに苦しめた、有名なもの。この特別展示がされていた。解説の映像のところでは、アメリカの軍艦が、襲撃されて、魚雷が当るような場面になると、見物人のいる床に衝撃が伝わるようになっていて、思わず、声を出してしまうほど興奮する。ここには、嘗ての戦友達のような雰囲気のお年寄りが沢山、見学にきていて、懐かしそうに、あるいは、時にはしんみりと船体を眺めていた。昭和20年以前の潜水艦というから、高々、2030mくらいかと思ったら、これが、またなんと、数十メートルはある威風堂々としたもの。魚雷も展示されていたが、それでも、10メートルくらいがある。潜望鏡をのぞいている人。潜水艦が浮上する原理を真剣にのぞいている人など、真剣な表情である。そういえば、アメリカは、イラクやアフガニスタンでは、今でも、戦争当事者なのであった。

 

本館の展示場から少し離れたところには、スペース技術の特別展示間がある。ここには、アポロ宇宙船や、月着陸船のモデル、そして、スペースシャトルの模型が展示されていた。再突入の時の摩擦熱で溶けたのであろう、アポロ宇宙船の焼け爛れた機体の表面には、良くぞ、こんなもので宇宙から帰ってきたものだと感心させられた。覗いた宇宙船の中は、宇宙飛行士が座る座席もまるで計器の中にうずもれるほど様々な計器がびっしりと詰まっている。ドア一つにしても、力を伝達するシャフトが十段階以上にも組み合わさっている。全ての動作がスイッチで動くようになっているからであろう。なるほど、これでは、こんな装置を操作するには、何年も鍛錬をしないと、いざというときの対処ができないということ� ��よく理解できた。

 

そうこうしているうちに、時間は、ダ・ビンチのツァーが始まる時間。これは、ダ・ビンチが画いた素描に従い、そのモデルを実現したというもの。勿論、有名な鳥人の羽のモデルもある。何とか、鳥のまねをして人間が飛べるようにと賢明に頭をひねったあとが伺える。その羽を設計するために作ったという実験設備。また、飛行実験でうまくいかなかったときのためにパラシュートまで考えていたと言うから、驚き。さらに、ヘリコプターの先祖のようなものも発明していたらしい。空を飛びこうした発明のほかに、当時、最も重要だったのが、兵器の発明である。馬車を馬に引かせて、走り出すと、大きな鎌が回転し、これで回りの兵士をなぎ倒していく殺人荷馬車、有蓋戦車は、側面に機関砲がついていて、ここから 四方八方に弾が出るようになっている。そのほか、高速のクロスボウ、マシンガン、大砲、戦闘用の投石器など。また、機械設備では、人力を補助するためのリフト、自動織機、これは、糸を伸ばしたり、ひねったり、あるいは、巻き上げるという三つの動作が同時にできるようになっているらしい。歯車、滑車などはいたるところで使われていたようだ。面白いのは、水に関する様々な発明。

一つに、水を川から高い場所に汲み上げる機械。これは、パイプを巻いた筒を回転させると、そのパイプの中の水が次第に上に上がっていくような構造になっている。なるほど、と思わず唸ってしまう。そして、水上歩行器。ここまでくると、まるで江戸時代の忍者の姿が浮かんでくる。日本では、集団でこうした工夫をしていたものが、イタリアでは、ダ・ビンチ1人の頭脳でなされていたというのだから、恐れいりました。川を浚渫するための船など、必要に迫られて発明されたものと思われる。

そのほか、有名な、ウィトトルウゥスス的人間の説明。これは、両手を広げた時の長さが背丈に等しいというもので、そのモデルは、40歳の頃のダ・ビンチ自身とも言われている。また、永久運動が不可能であることを証明した機械など、これを、子供が遊んでいるそばで、親が仕切りに原理を説明していたが、専門家でも理解に苦しむようなものだ。

ただ単に、展示物を見るだけではすまないのがアメリカの展示場の一工夫されたところ。ここには、丸太を釘や、紐を使わず、力のバランスだけで組み立て、橋を作るという実演を、見学者がする。

 アメリカ人の感心するところは、こうした、参加イベントに誰もが積極的なこと。指名をされて、恥ずかしがるどころか、手を上げて自分から立候補するほどだ。子供たちが積極てきなら、大人も進んで、奉仕を買ってでる。子供たちが参加して、13本の丸太を使い、次のような橋を作っていましたので、爪楊枝などを使うなどして、皆さんも是非、挑戦してみてください。


すっかり、楽しんだ科学産業博物館。ここを出るときにはすでに、3時過ぎ。この日は、水族館による積もりでいたが、これからではどうしようもないということで、急遽、元、世界一というシアーズ・タワーに上り、シカゴの展望を楽しむことにした。

このシアーズ・タワーは、1974年に、三年の歳月を費やして完成したもの。高さが443m、110階建てで、1996年にマレーシアのクワラルンプールにできた、ペトロナス・ツィン・フワーが完成するまでは、世界一を誇っていた。

ここに入るには、田舎ものにはいろいろな苦労がつきまとう。まずは、この大都会での駐車場探し。とにかく、道は一方通行であるから、このビルの近くに駐車場を探そうと思っても、なかなか見つからないだろうということで、ひょいと近くに見つけた町の駐車場に入れるが、これがまたべらぼうに高い料金。1時間10ドル程度。まあ、この大都会では仕方ないだろうと、観念してここに止める。が、目的のシアーズ・タワーまでは、数ブロック歩かなくてはならない。遠くから見れば、たいしたものとも思わないが、さてさて、歩いてみると、とにかく距離があるのが、都会のビル。と言うわけで、やっとの思い出、このシアーズ・ビルに来てみれば、なんとそこにはちゃんとお客用の安い駐車場があるではないか。あ ーっ、これが知らない者のとんだドジと言おうか、田舎者のあわて者の挙句の果てといおうか、少々、腹が立ったがいたし方なし。とまだ、このあたりまでは、愚痴も出なかったが、さて、シアーズ・タワーに上る段になり、これがまた、混んでいる。アメリカに来て、待ち時間など、空港以外にはあまり経験していないので、いらいらしてエレベーターに乗る列に並ぶ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

15分程度で、エレベーターに乗り、ああっ、これで世界一のタワーの天辺に上がれるのかと思ったら大間違い。なんと、エレベーターはちょっとあがっただけですぐに止まり、今度は、ここで、セキュリティーのチェックを受ける。時節柄と、とにかく、こうしたビルのテロに対する安全確認は特に神経質になっている。空港でのチェック並みの厳しい検査を受けるのに、およそ、30分かかる。そのあと、やっとの思いでチケットを買う。そして、今度こそ、展望台に挙がるエレベーターに乗るわけだが、これにまて、15分ほど。こうして、およそ、1時間かかり、やっての思いで展望台に。この展望台、103階にあるが、ここまで上がるエレベーターが、1分03秒と言うのが心憎い。ビルのウィットか、それとも、アメリカ人のジョークか。すこしは、たった腹の虫も治まりかけたが、ところが展望台について、また、その混みように、いらいらしてくる。アメリカ人は少ないが、インド人やら、中国人、それに、ヒスパニックの人たちがやたらと目につく。なかなか人の上に立つ事はできないが、ここなら、存分に人の上にいることを感ずることができる。上に上にと行きたがるのは、何も日本人だけが好きだということだけではないらしい。なるほど、セキュリティーのチェックもこれでは、厳しいわけだ。

 このシアーズ・タワーからの展望、流石に、視界が開けていなければ、入館料を割引するというだけあって、なかなか見事なものだ。眼下には、まるで、展に針の先を突き出したように、ノッポのビルが立ち並んでいる。さしずめ、針のむしろを思い出させる。そのビルの向こうには、ミシガン湖がみえる。湖といっても対岸は見えないから、もう、海そのものだ。そして、西には、イリノイの大平原が広がっている。ここは、景色をあれこれ説明するより、写真でみていただくのが賢明だろう。とくと、シカゴの摩天楼をご覧あれ。

 400メートルの高さも、上から見ると、さほど、高く感じなかったが、下におり、改めて、上を見上げてみれば、なにか、展望台のあたりはかすんでいるようで、流石、首が痛くなるほど。これが、まさしく、摩天楼の現実の姿だった。

 

シカゴの摩天楼の眺めについついいい気分になって、この日の宿に向かう。シカゴの空の玄関、O'Hare空港の先にあるArlington Heightsと言う町にホテルを予約してくれた。インターを降りて、ホテルに向かう途中、日本料理店がちらほら。何でと思ったが、なんと、ホテルについて尋ねたら、ここのホテルの泊り客の40パーセントが日本人客だと言う。

近くに、日本料理を食べるところがあるかと聞いたら、しっかりとリストまでつくってあった。ホテルに来る時に気づいた、すし店まで、一走り。あとで聞けば、ここが、シカゴ界隈で一番人気のあるお店とのこと。子供をつれた家族、友達同士の人、給仕の店員も日本語とくる。アメリカ人も結構来ているが、大きな声で日本語が飛び交う。日本のビールを飲み、てんぷらを食べ、すしを頬食むと、まるで日本にいるような錯覚をする。暫くすると、隣に可愛い子が座る。これがまたよく食べる。驚いてみているとすしの皿10枚くらい食べてケロリとしている。聞けば、イラン人と日本人のハーフとのこと。少しだけ、日本語が話せるといっていた。旅先で日本語が話せるとは、痛快、痛快。ここの元気なおばさん、� ��美さんでした。どこかで聞いたような名前。そういえば、歌の文句にあったような気がする。思わず噴出す。

 

どうも、あとから聞けば、この界隈、シカゴの空の玄関シカゴ空港の周りには、日本の輸送会社の事務所が沢山あり、そこの駐在員がこのあたりに沢山住んでいるとのことであった。そのため、近くには、「ミツワ」という、日本のものはなんでも揃うというスーパーがあり、ここに、近くの日本人が買い物に集まり、店のなかは殆どが日本人だという。そんなこともあり、ここのホテルは、日本食が食べられるといううたい文句で、よく知られていて、シカゴのみならず、遠くアメリカの各地からシカゴに来る人たちがよく利用するとのことである。


 

この日、ケンタッキーから来たという駐在員風の家族。男の子2人を連れて、シカゴまで遊びに来たと言う。聞けば、オーエンズボローの田舎といっていた。懐かしい名前である。そこは、オハイオ川のほとりにある町で、インディアナの対岸の町、エバンスビルから程近いところの町だ。ナチェス街道めぐりの帰り、ナッシュビルからエバンスビルに行くときに立ち寄ったことがある。そのときには、かなり開けた町だと思っていたが、そこが、田舎でどうしようもないというから、われわれのいるところは、人よりも牛の数のほうが多いくらい、もっと田舎なのだからといったら、楽しそうに大笑いしていた。

 

宿のテレビには、日本語放送まで入るほどの熱の入れよう。参った。

 

 以上、一日目・二日目(  一部三日目もあり )状況でした。

 

  Chicago

 



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