反天皇制運動連絡会編集『運動〈経験〉』33号(2011年7月30日発行)掲載
きょうの集会のテーマは「領土ナショナリズム」です。集会の呼びかけ文を読むと、そこには「植民地主義の継続」という問題意識があると思います。私自身も同じような問題意識を持っていますので、植民地が実質的になくなった現在にあっても、領土問題を通して否応なく現われ出てくる植民地主義を肯定し支える意識と実態が、どのように生き延びているかということをお話ししたいと思います。
この間、日本社会の中では、尖閣諸島や竹島(独島)をめぐる領土問題が非常に大きな関心を集めてきています。みなさんも、それぞれの歴史過程や現状についてはいろいろ調べられたり、分析されたりしていらっしゃると思います。私は、きょうは、この個別の問題それ自体に深入りするのではなく、それらが位置している大枠の問題について、どう考えるかというお話をしたいと思います。
第二次世界大戦後、ヨーロッパ諸国の支配下にあった東南アジアの諸国が次々と独立を遂げました。日本の敗戦とともに、その支配下にあった植民地も解放されました。さらに1960年には「アフリカの年」と言われるほどに、多くの国々が独立を遂げた。そういった戦後過程の中での具体的な展開があって、植民地主義そのものがすでに崩壊し、存在しなくなったという考え方が、長く続いてきたと思います。アフリカのポルトガル領植民地は1975年まで続いていましたから、すべてが一掃されたわけではなかったけれども、大きな形としてはそれらは第二次世界大戦後の過程の中で無くなったというのが世界共通の認識であった。しかしこの間改めて「継続する植民地主義」という言い方をする人たちが、全体から見れば少数派ではある� �れども、生まれてきています。私自身もそういう問題意識を共有している、そういう立場で物事を考えている人間です。そのことを前提にした上で、お話しします。
●捏造された歴史の古層
昨年、2010年という年は、前期旧石器時代の史跡捏造事件からちょうど10年目にあたりました。事件を振り返る書物も幾冊か出ました。捏造事件が発覚したのは2000年の11月で、毎日新聞のスクープで始まったわけですが、ジャーナリズムの上では、大量の報道がなされました。
事件発覚以前は、石器を発掘する特殊な能力を持っていて、「神の手」とまで称揚されていた藤村さんは、その後、「この手がだめなんだ」と言って右手の指を二本切断して、今はひっそりと暮らしておられるようです。当事者である彼自身の振り返りというのは公になってはいない。けれど、事件以前に20年間にわたって藤村氏に同伴したり称揚したりしてきた周辺の学者とか、文科省、・文化財保護局の人間などが、重い口をようやく開き始めています。
すべての都市国家はまだ存在するのか?
宮城県を中心に東北地方では、藤村氏が前期旧石器の遺跡から次々と石器を発掘していた時期があった。そのことによって、いわゆる日本列島の歴史は一挙に何万年、ときには10万年単位で古くなるという、そういう発見が続いたわけですね。ほかの考古学者がいくら発掘してもそのようなものは出土しない。ところが藤村氏が現れると突然のようにしてその時代の石器が現れる。結果的には、縄文遺跡から発掘した石器を、誰もいない深夜とか早朝に、発掘調査が続いている現場に埋め込んで、後日「発見した」と言って大騒ぎになるという、そういうことをしていたことがあとでわかったわけです。考古学というのは、世界どこでもそうですけれども、より古く、より大きく立派な文明が、自分たちが現在生きている地域に栄えてい� �んだということを実証する競争になってしまうところがあるわけです。どこまで古く自分たちの国の歴史をさかのぼることができるか、そしてそれはどれほど偉大な、当時の世界水準でいってまれに見るほど優れた水準であったかという、そういうことを競うことになる。考古学という学問の恐ろしい一面です。藤村氏が発見したという前期旧石器時代の遺跡は、まさしくそのような日本の歴史の古さを証明するものとして、当時報道されていたわけです。考古学者の中には、あまりにも奇蹟的な発見が続くので、留保したり批判したりした人もいたけれど、当時の社会状況の中ではそれは大きな声にはなりませんでした。むしろそのような批判的な考え方が疎んじられていたようです。この事件は、自国の歴史がより古く、世界にもまれ な発展段階を示していたということを主張するものとして働いたわけですが、それはいわば、客観性を欠いた自国中心主義的な歴史観を日常レベルで準備する、そういうものとなっていったわけですね。
考古学というのは、それなりに人のロマンをかき立てるし、日常的な歴史意識を形づくっていく上で、大きな働きをすると思います。日本の場合、1972年に高松塚古墳が発見されました。あの壁画の鮮やかな色や形も、ちょうど高度成長期の発展する日本という感覚に沿っていたように思います。つまり、朝鮮半島や中国大陸との関係で前期旧石器時代をどう考えるのか、日本列島のみに孤絶して花咲いた、前期旧石器時代などというものがありえたのかどうかという冷静な問題意識が、まったく欠けていた。つまり日本独自文化論と言いますか、列島として、あるいは島国として孤立していることによって可能になっている「独自の文化」というものの、そういう枠組みの中に回収されていく。そういう思考の問題が残っているだろうと 思います。
●3人の歴史学者──井上清
こうしたわれわれの日常的な歴史意識を形作ってきたのは、考古学だけではありません。具体的な例をあげますけれど、そこで固有名を挙げるのは、時代的な限界の中で生きた人の議論を、後世に生きるわれわれの特権で一方的に批判するためではありません。むしろ、時代的な制約の中で、人間の歴史観・世界観というものがいかに制限されてきたものであったのか。今の私たちから見れば信じられないような主張ですが、そういう時代というものがあるんだ、という、その時代の特殊性を取り出すためです。
井上清という歴史家がいます。2010年からの尖閣列島問題では、1972年に出された彼の本『「尖閣」列島──釣魚諸島の史的解明』(現代評論社)を媒介にして、思い出されることが多かった人です。
丘のキャンプ、マーブルフォールズ、テキサス
戦後日本の歴史学の中ではずっと共産党の立場で発言していましたが、ちょうど中国の文化大革命のとき除名され、毛沢東派として中国べったりの発言をおこなった方です。一番よく売れた本としては、1963~66年に岩波新書で出た『日本の歴史』全3冊があります。これは今でも出ています。40刷とか50刷とか、そういう増刷を重ねている本ですから、数十万単位の人びとに読まれている本だと思います。
いわゆる人民史観と言いますか、勤労者階級のような働く人びとの立場を大事にしようという歴史観を、井上さんなりに込めた本だと思います。けれども、冒頭で展開されるのは、単一民族国家論なのです。日本は島国であることによって、「歴史をさかのぼることができる最古のときから、現在にいたるまで、同一の種族が、同一の地域、いまの日本列島の地で、生活してきた」。それは非常にまれなことであった。「日本人は、原始の野蛮から現代文明の一流の水準にまで、社会と文明を断絶することなく発展させてきた。これは日本歴史の大きな特徴の一つである」「一たん文明に到達してからの、日本社会の発展のテンポは、ときには急進しときには停滞しながらも、全体としては、けしてのろくはなかった。その何よりの証拠� ��、日本は現在、世界の一流の文明国である」。こういう表現が出ています。
単一民族国家論というのは、その後の現代史の過程で批判しつくされています。63年の時代にはそれが常識であったのでしょうから気の毒かもしれないけれども、しかし、井上さん自身が左翼の歴史家であったということを考えれば、いったいどうしてこのような認識が出てくるのかということは、私の価値観からすれば、今なお問うに値することです。それから、ある国が「世界の一流の文明国である」というような表現は、どう転んでも私の口からは出てこないし、おそらくこの会場におられる、2011年に生きている皆さんの口からも、出て来ようもないだろうと思う。自分の国を指して、このような表現でなにか世界の中で際立たせていく発言が、なぜ50年前の日本人左翼歴史家に可能であったのか。その後30年経ち40年経ち、井上さ� ��自身にもいろいろな思想的な変遷があったろうけれども、それが本の書き直しとして果たされることなく、なお、そのまま増刷されていったのはなぜであろうか。そういう問題が出てくると思うのです。
このような単一民族国家論、あるいは文明国家を高度から低度までの発展段階に分けて、比較し優劣をつける。そういう歴史観・文明観というのと断絶すること。そのことが植民地主義の克服のためにはどうしても必要なことだと思います。
●三人の歴史学者──江口朴郎
もう一人、江口朴郎さんという人がいます。この方も井上さんと同じ時代の生まれで、1989年、ヒロヒトが死んだ年に亡くなっています。僕らの世代で言えば、日本共産党に属していた世界史的な視野を持った歴史家として記憶されていると思います。この方が88年段階で、こう語っています。今から23年前ですね。
「19世紀から20世紀初頭の転換期を、日本が明治憲法と教育勅語そして日清・日露戦争というかたちで乗り切ったということは、世界的に見ても、善かれ悪しかれ、たいしたことであったと思います」「アジアの諸地域が欧米列強のもとにどんどん植民地化されていくという状況のもとで、ほんの小さな可能性しかないときに、どうやって不平等条約を解消できるかというふうに考えれば、あれはとにかく善かれ悪しかれ、たいしたことですよね。19世紀から20世紀をああいうふうにのりきるこというのは、あれよりほかにはなかったんだよ」(『現代史の選択――世界史における日本人の主体性確立のために』、青木書店、1984年)。
ナイアガラの滝カナダストリップクラブ
江口朴郎は、ほとんど晩年まで共産党員で、おそらく70年代初めの「新日和見主義問題」のときに共産党から除名されて、離れた方だと思います。しかし、この物言いは、司馬遼太郎とほとんど同じ歴史観であるとわかります。昨年からNHKで、司馬遼太郎の『坂の上の雲』がドラマ化されて、不思議なインターバルで放映されています。長い時間をかけて、しかし継続的にではなく放映されている。『坂の上の雲』に凝縮された歴史観というものがどれほどひどいものであるかということについては、私も行なったことがありますし、さまざまの人の発言がすでになされています。それを私たちが聞いたり、あるいは考えたりするときに、司馬遼太郎の世界に熱狂する、主としてサラリーマン世界を中心とした男たちの世界というも� �を外部化して、自分とはまったく関係ない一つの傾向というふうにみなすことはたやすくできるかもしれない。しかし江口さんの今の発言を顧みるときに、このような考え方は、必ずしも自分の外部にのみあるものではないのではないか、もしかしたら自分たち自身を蝕んでいる考え方なのではないのかというふうにとらえ返すことが、どうしても必要なのではないかと思います。「善かれ悪しかれ」ということばを挟みこめば、どんな歴史的過去も無限肯定できてしまう恐ろしさが、ここには表われているのです。
●3人の歴史学者──高倉新一郎
もう一人、高倉新一郎さんという方がいます。北海道出身ではない、あるいはアイヌ史に特別な関心をお持ちでない方はご存知ないかもしれません。1902年生まれで1990年に亡くなった歴史学者です。『アイヌ政策史』(日本評論社)という本を、戦争中の1943年に出しています。そこで、明治国家がいかにアイヌを収奪・支配してきたかという歴史過程を実証的に描きました。これはいまでも、読むに値する本だと思います。
その彼が、1969年の『現代の差別と偏見』(新泉社)という本の中で「アイヌ人」という項目を担当しているのですが、そこでは次のように書いています。
「一つの民族が永久に地上から消える。大問題だが、結局は双方にとってしあわせであり"人類は一つ"の理想的な行き方でもあろう」。
永久に死滅して地上から消えていくのはアイヌ民族です。そしてそれが、アイヌ民族にとっても、日本民族にとってしあわせであると、高倉氏は言っています。
高倉さんは、先ほどふれた戦争中の重要な仕事にもかかわらず、戦後の一定の段階を経た後では、もうアイヌ民族の日本社会への同化は完了したということを基本的な考え方としてきました。その延長上で、この69年の文章も書かれていると思います。しかしこれはアイヌ民族にとってみれば、いったいどのようなことばとして聞こえるか。どれほどことば自身に暴力性が孕まれているか。植民者の側にあった、そして北海道という植民地の中において、明治以降急速に確立されていった教育制度の中で学問をおこなうことができ、大学教授になることができた高倉さんには、とうとう見えなかった問題があったのではないか。ここでも「継続する植民地主義」という問題を見抜くことが必要なのではないかというふうに思います。
私は高校を卒業するまで北海道に暮らしていたのでわかりますが、高倉さんは、当時北海道では非常に大きな勢力であった社会党のシンパサイザーであり、北海道における進歩的文化人の一人でした。つまり、ここに挙げた井上、江口、高倉という三人の方たちは、それぞれ日本の戦後過程の中では左派的な立場、いわば進歩的文化人という立場で、一定の発言権を持っていた人たちです。その人たちが展開してきた議論が、当時はこういう水準であったということをみれば、やはり社会全体の中から植民地主義的な思考が払拭されていたわけではなかったことがはっきりします。このような思考は、それから何年もたった今なお、私たちを呪縛しているのではないだろうか。そのような思考が私たちを捉えて離さないということには、� ��る種の必然性がある。たたかうべき敵を、すべて自分の外部に置いてしまうのではなくて、もしかしたら自分たちがこれに腐食されているのかもしれないという、そういうとらえ方をする必要が、この問題の場合にはあるのではないか、というふうに思っています。
●近代の日本とアメリカ
次に移ります。本当は地図と年表を用意すればよかったのですが、時間が足らずに自分用のメモを作るのが精一杯でした。少し聞きづらいかもしれませんが、年号がしばらく並びます。あとで地図をご覧になるなり、年表をひもといて確認していただきたいと思います。
竹島・独島の問題、尖閣列島の問題を考えるうえで私たちが注意しておかなければならないことは、これらが明治維新前後に始まった日本帝国の領土的な拡大の過程で出てきている問題であるということです。そういう歴史的な過程の中に投げ入るという方法が必要です。反天連のニュース(『反天皇制運動モンスター』2011年2月号)の連載でも、この問題には若干ふれておきました。日本が明治維新を迎えた時代と、アメリカ合衆国が太平洋に進出してくる時代と、非常に密接な関連性があるということです。
現代世界の平和と戦争をめぐる問題を考えていく上で、アメリカ帝国というものの存在がどれほど大きなマイナスの力を持っているか。それは私たちが常に行き当たる問題です。あの超大国は、今なお、世界で唯一、あの傍若無人な振る舞いが許されてしまっているわけです。それは、最初は大西洋に面した東部の小さな地域から始まりました。その後、ルイジアナやフロリダのように、フランスやスペインから金で領土を買ったり、あるいは「西部開拓史」に見るように、先住民族・インディアンの殲滅戦争をおこなった。19世紀半ばには、メキシコと戦争して、賠償としてカリフォルニア、ユタやネバダなど、メキシコ領土の半分を割譲させた。それによってアメリカ帝国は、太平洋への出口を1848年に確保したわけです。そしてあの� ��は、イギリス帝国にならって太平洋に艦隊を繰り出し、1853年には、メキシコ戦争にも加わったペリー総督がインド洋に展開し、本国からの指令で日本の鎖国をとくために浦賀に来航した。これが近代化へ向かう日本の一つの大きな結節点になったわけです。
ですから、今に至る日本と米国との関係というのは、この時代にさかのぼってさまざまな問題を解明していかないと、見えない問題がある。歴史的な解明は事実に則してわりあいすぐできるのですが、心理的な解明、日本の社会に深く刻み込まれてしまった米国なるものの位置、重さ、そういう心理的解明は、ここの段階にまでさかのぼって、われわれの内心をえぐるようにしてやらなければならないだろうと思うのです。
●四方向への日本の進出
ペリー来航を契機として、幕末、明治維新にかけての混乱の過程を歩んだうえで成立した明治国家が目指したのは、富国強兵という形で欧米列強にならう政策を準備していくものでした。左翼歴史家・江口朴郎氏は、まさにこの過程を不可避のものとして肯定したのです。そこで現われるものの一つは、帝国の版図の拡大ということでした。さきほど、アメリカ帝国の版図拡大の例にも簡潔に触れました。日本の列島の位置を頭に思い浮かべた時に、北へ向かってどう拡大したか、南へ向かってどう拡大したか、東へ向かってどう拡大したか、西へ向かってどう拡大したかということを、考えていく必要があるわけです。
北へ向かったときにどうなったか。明治維新は1868年ですが、その翌年、アイヌモシリ=蝦夷地は、北海道と改称されて明治維新国家が日本の領土として強制的に編入してしまいます。私の考えでは、これは日本が初めておこなった公式の植民地獲得であると思う。植民地獲得は、1894年の日清戦争後の台湾領有に始まるのではなくて、明治維新の翌年の蝦夷地の編入から始まった。
それから6年後の1875
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